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2011年11月26日 (土)

三島由紀夫の霊言 其の参(再掲)

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 3 若きサムライたちへのアドバイス

B- 武家思想の根幹とも言える精神を開陳いただき、ありがとうございます。
それでは、私たち一般の生活者にとって身近なテーマで質問します。
 生前の三島先生の八面六臂のご活躍には驚嘆しております。およそ二十年の
間に、あれだけの作品を制作しつつ、舞台、映画、政治など、様々な方面にも
活動の幅を広げておられました。
 もしかしたら三島先生は、一日二十四時間を、三十時間にも、四十時間にも
引き伸ばす魔術でも体得しておられるのではないかと、本気で信じてしまいそ
うになるほどです。
 三島先生は、なぜ、このような密度の濃い活動を行なうことができたのでし
ょうか?時間を有効に利用する秘訣のようなものを体得しておられたのでしょ
うか。よろしければぜひご教授ください。

三島由紀夫 生前にどこかにも書いたが、私は十代の頃には二十歳過ぎに夭逝
した天才を、二十代の頃には三十代ですさまじい仕事をした偉人を、それぞれ
目標として仕事をしてきた。それが多作と広い活動へつながったが、仕事をし
終えたという意識は全くない。書きたい事はまだ山のようにあった。
 君のように、私の熱心な読者なら、短編で示したモチーフの中に長編に展開
できる重要なテーマが示してあったのを見るだろう。私は書いた短編の数だけ、
少なくとも長編を書けたと思う。

 人生で何を成したいのかを問え

B- なるほど。仕事にはやはり、目標というものが大切なようですね。とこ
ろが凡人である者は、目標と計画は立てるものの、それを実行するのに困難を
感ずることが度々あるものです。目標に向かって日々歩み続ける活力を生む元
というのは、なにかあるのでしょうか。

三島由紀夫 大切なのは、強度がある生き方をしたいかという事なのだ。
 人生で何がしたいのか、自分は、真善美をどれだけ人生の中で花開かせる事
ができるかを考え抜いた時、おのずと時間を無駄にする発想はなくなる。
 私は若いころ焦っていた。夭逝した天才と同じ年になった時に、彼らほどの
仕事をしているだろうかと。私は最初は文学で、最後は人生そのもので、不滅
の価値を訴えたが、こうした生き方をしたいと真に願わなければ、いわゆる計
画は何の意味ももつまい。それは人生をどのように安楽に生きるのか、苦難を
さけて生きるのかという計画であって、人生を通じて一遍の文学を書きあげ、
世界に価値を残して死ぬ人間の生き方では無い。

 日本語表現と古典の関係について

B- 目標自体の質の高さと意志の強さが、その後の展開を導くいうことです
ね。しかし、私たちは質の高さを追求する時点で苦労しているのが現実であり、
己を高めるための一方法論として、古典の学習の必要性を痛感しております。
 昨今の世相を見るに、日本人の日本文化に対する無知は、深刻な事態に至っ
ています。「日本人が、日本に詳しい外国人から、日本文化を教えられる」と
いうことは珍しくない状況です。この日本に詳しい外国人とは、ドナルド=キ
ーン氏のような特別な学者を指すのではありません。学者でもなんでもない、
親日的な外国人のことです。また、たとえばブラジル日系人の方が、日本国在
住の日本人よりも、よほど日本の伝統文化を保持しているというような現象も
生じています。
 このような状況を憂い、日本文化を学ぼうとする者も、少しずつ増加してい
るようです。しかし、どこから手をつけたらよいのか、分からず、いたずらに
日を送っている場合も少なくないようです。
 三島先生の日本古典に対する造詣の深さは有名ですが、これから古典を学ぼ
うとする若者、無為と怠惰のままに流される若者たちに、日本古典の入門書、
入口について、ご助言をお願いします。
 また、これは本来なら、公立学校の国語教師のすべき仕事ではありましょう
から、国語の授業のあり方にも一言、お願いします。

三島由紀夫 まず申し上げておきたいが、私の国語の学習法は、辞書と文学書
の乱読という独習方法であったので、他の人の参考になるとは思えない。
 かつて述べたが、私は、日本の古典などを詰め込んで愛国心を涵養するよう
な、自民党的な愛国教育には反対していた。あるべき国語教育は自然に古典が
面白く感じるような教授法が望ましいと考える。
 そのためには逆説的だが、古典に拘泥する必要は無いと思う。むしろ日本語
を用いた表現形式の中で、それでもなお純文学が、漫画よりもゲームよりも、
映画よりも人間性の本質をついた面白いものである事が分かれば、自然と古典
を読むだろう。表現者にはそれだけの覚悟が求められる。少なくとも、私はガ
ロの漫画や手塚治虫よりも熱心な読者をもっていたように思う。
 霊声者に聞いたがこの場所にたまに現れる高校国語教員(光の法縁配夢氏)
は、漫画と教科書しか読まないらしいな。私がここで、黒板など漢字を書いた
として(黒板に「蔑する」と書く)、その者は、たとえば「蔑する」を「なみ
する」と読めないのではないかな。

B- 小学生くらいの子役の少女と対談したおりに、読むべき本を問われて、
辞書をあげられていましたね。先日、亡くなられた井上ひさし氏も辞書をよく
読む方だったといいます。
 辞書を読むというのは、どのように読むのでしょうか。はじめから順にペー
ジを繰って行くのでしょうか。それともその時々の興によって、気の向いた項
目をぺらぺらと捲ってみるのでしょうか。

三島由紀夫 私は最初のページから最後のページまで読んだ。断言するが、大
辞書を通読しえた人間で、小説がかけない人間は一人もいないと思う。

 「文学の死」について

B- 無理に読書を勧めなくても、仮に禁止したとしても、純文学などの面白
さに気づきさえすれば、読むようになるだろうと思います。ただその面白さに
気づくには、純文学を開いて見なくてはわらかない、しかしそれを開いてみる
ことがないためにその面白さに気づけず、すぐ手近に宝物があることを知らな
いまま日を送っている人が少なくないのを惜しく思います。
 こういう状況に危惧を感じたのかどうかは知りませんが、昨今は、古典的な
名作をマンガ化して、広く読者に提供するということがなされていますが、三
島先生はこれについてはどうお考えになりますか。

三島由紀夫 古典的名作を漫画にする事には反対しまい。はっきり言えば、今
文学をやっている人間の中で、漫画家を超えるだけのものを提示している人間
が一体何人いるだろうか。彼らは、幼女誘拐が起これば幼女誘拐を、少年殺人
が起これば少年殺人を描いて、文学村の中のお互いの仲間ぼめの中で生きてい
るに過ぎない。
 文学とは、現実世界に価値を持ちこみ、圧倒的迫力でその価値を提示しなけ
ればならない。そして最後にはその価値すらも相対的なものであるという世界
の不条理性までも突きつけ、世界の持つ本質的なダイナミックスを、世界その
ものを見るよりもヴィヴィッドに示さなければいけない。それができずに現実
の事件を描写して喜んでいる人間などは漫画家以下の表現者でしかない。
 君は気づいていないかもしれないが、芥川や初期に私がやった事はある種、
「純文学の漫画化」なのだよ。芥川は日本の古典を、私はギリシア悲劇をその
モチーフとして取り、それを日本現代文学の枠内で表現しなおしたのだ。
 「オイディプス王」は読まれ、解釈され、演じられ、翻案され、その主題が
表現されなおす時に、それぞれまた生命を獲得する。私もその中にいたし、私
の作品にこそ、インスパイアされる事を望む。「朝の純愛」や「女神」で示し
た愛の姿などはギリシア悲劇的であるが、これらの作品はそのまま長編にしよ
うとしてもできるだろう。

B- 確かに、芥川氏と、三島先生の作品は、論理的で整然としており、ある
意味、記号的なものであるように思います。私はマンガとは記号であるという
見解に同意しておりますので、マンガとの共通した部分は少なくないという見
方にも共感できます。
 また両先生は、古典的な物語を下敷きにして作品を書いたのであるから、物
語の基本的な構造がいかなるものであるかは熟知しておられたのでしょうね。
さすれば両先生の作品からその構造を見極め、それを骨として、新たな物語を
構成するというのは、愉快な試みとなるかもしれません。
 現代の文学が抱える問題点についても、まことに仰る通りと思います。おそ
れながら、付言していえば、現代の純文学は、新たなる価値を提示するという
よりも、方法論的な目新しさを追いすぎるところも、今ひとつ、輝けないでい
る一因となっているのではないでしょうか。これまでにない新奇な形式を持つ
小説を書こうとするあまりに、外形ばかりに興味が向き、その中身は空洞にな
っている作品は少なくありません。
 また人目を引くためか、単なる奇想天外な奇人変人を描き、それを以てして、
前例のない新しい文学かのように胸を張っている作家もなきにしもあらず。
 本当に、三島先生の仰るように、何らかの価値、柱を持った文学作品に期待
したいものです。近頃の新奇さ狙い、奇妙奇天烈さ狙い、それから精神的な支
柱を持たない都会的おしゃれな雰囲気を漂わせただけの作品には、食傷気味で
すので。そのあたりはいかがでしょうか。

三島由紀夫 現代の表現者達の脆弱さは、彼らが表現したい価値基準を持たず、
現実世界の異形に打ちのめされた圧倒的体験を、そのままトレースするという
形式をとる事からの必然であるとも言える。しかもその体験すら多くの場合は、
メディア経由だ。
 文学は異形を描写するのではない。異形を生み出す、いや、「異形そのもの」
なのだ。そうした文学に携わる表現者が、新奇を追い回す異形礼讃に陥れば、
それは「文学の死」である。

 後進を育成する意義について

B- 生前のエピソードについて質問します。三島先生は、あるパーティーに
て、突然、或る小説家から土下座され、「小説の書き方を教えてください」と
懇願された際、その小説家をパーティー会場の片隅に招き、ご自身の小説作法
を丁寧にお話しになったと聞いております。
 三島先生は、これ以外にも、かげに日向に、若い芸術家たちを引き立ててい
たと聞いております。芥川賞が受賞できそうでついにできなかった島田雅彦な
どは、三島先生の不在を嘆いて見せたりしているようです。自分を引き立てて
くれるのとは反対の行為をした大家がいたことを、暗にほのめかしているわけ
です。
 思いますに、大家の中には、三島先生のように若手の面倒見のよい方と、若
手に冷淡な方がおられるようです。一体どういったわけで、大家の先生方は、
こういった二種に分かれてしまうのでしょうか。また三島先生が、若い芸術家
たちに愛情をお示しになったのは、何か深い理由があるのでしょうか。

三島由紀夫 ・・・君の事だから「若い芸術家への愛情」とは裏に別の意味を
持たせているように思うが。私は、その愛情を注いだ若い芸術家に死後、私の
私的生活を暴露されているので、あんまり参考にならないのではないかな。
 まあ若い作家に対する関心がある人と、無い人に分かれるのは文学に対する
取り組み方の違いがあるように思う。だが文壇の裏話をすれば、若い作家を育
てたがる「大家」は、文壇政治に関心があるむきも多いので、必ずしも褒めら
れる事ではない。江藤(江藤淳氏)なんかその代表だがね。逆に若い作家に関
心が無い超然としたスタイルの人間こそ、若い作家に影響を与えたりもする。
ちなみに私が後進に対して関心を示し、指導のような事をした事があるのは、
まともな文学者を多く輩出し、文学者の社会的地位をフランスやアメリカのよ
うな水準まで高めたいという動機があったからだ。江藤は自分が偉くなる事し
か関心が無かったが、私は、欧米のように作家が一つ大作を書いたら2~3年
は充電できるくらいの収入を獲得できなければ、文学は育たないという意識を
もっていた。

 大作書き下ろしの難しさ

B- 私も、大作を一つ書いたら、数年の充電期間をおくという生き方に賛成
します。また、できれば、書き下ろしという形式が望ましいように思います。
腰をどっしりと落ち着けて、数年に一冊、分厚い書き下ろし作品が出版される
という方式です。文芸誌などに連載しつつ、あちらこちらに雑文を書きなぐる
というやり方では、消費される小説はできても、後世に伝わり、古典となって
ゆく作品を制作するのはほとんど不可能なのではないでしょうか。このような
意見を三島先生に向かっていうのは心苦しいのですが・・・。

三島由紀夫 それもスタイルによるだろう。漱石のようにパンクチュアルに作
品を書く事で作品が書ける人もいる。書き下ろしの難点はある種の撞着を起こ
す事がある事だ。私の作品で長編にすべき主題をあつかいながら短編で終えた
ものについては、書き溜めている中で、登場人物や主題が自ら勝手に小説世界
の中で動き出す事が少なく、小説を書いていく中で主題が深まって行かなかっ
た事がある。

 フェミニズムと「保守主義」

B- 先生にも様々な苦心があったということですね。
 さて、三島先生は生前、「女ぎらいの弁」にて、女性をしんらつに批判して
おられますが、近頃のフェミニズムの影響力の増大を、どのように見ておられ
ますでしょうか。たとえば男女共同参画社会や、夫婦別性については、どのよ
うなお考えをお持ちでしょうか。

三島由紀夫 私は、開放的な女性について、ちょいとヒューモアをもって茶化
した事もあるし、女性の社会進出について、必ずしも否定的であったわけでは
ない。 
 私が危惧したのは、両性の本質的差異を解消する方向の平等主義は、人間性
そのものへの反逆であり、それは両性ともに幸せにせず、無機質で非人間的な
社会に堕してしまうという事だ。「イエ」にせよ「伝統」にせよ、どちらとも
フィクションだが、そのフィクションを演じる事で、人間は精神の安寧を得る
と喝破した。それらフィクションを演じる作業を擁護するのは「保守主義」だ。
私はこの立場をとる。

 霊界の文壇事情

B- 保守主義とひとことで言えど、奥深いものなのですね。今の時代、やは
り先生のような方が文壇に必要です。
 そちらの世界でも、文壇のようなものは存在するのでしょうか。作家の方々
が作品を発表し、論評をし合うような場はありますでしょうか。

三島由紀夫 文壇はあるが、不思議と、一方通行な著書のやりとりしかしない
人間と、相互交流可能な人間とに別れる。こちらの世界では武田泰淳君が多作
だ。ちなみに私は、こちらの世界に入ってから一作も書いていない。同時代に
生きた作家・評論家達の新作が、この海底に届くのを読むだけだ。ここに来る
人は限られている。上田秋成先生が来てくれた事があるが。

B- なるほど。外国の作家との交流はありますでしょうか。三島先生は生前、
ラディゲを高く評価されておいででした。そちらの世界では、ラディゲ氏と何
らかの交流はおありでしょうか。また、おありであるならば、ラディゲ氏は今
現在、どのような作品を発表されておられますか。

三島由紀夫 私は日本霊界におり、実際のところ、外国作家との交流はない。
私は、この場所から動く事はできないし、外国文学は書斎にあるものだけだ。
そちらの世界の新刊は読む事はできるが、こちらの世界における新刊は、届け
てくれる人のものしか届かない。残念だが、ラディゲ氏が今どうなっているか
については不明である。

B- わかりました。三島先生は、太宰治氏とその作品を嫌悪しておられまし
たが、そちらの世界で、太宰治氏と面会なされる機会はありましたでしょうか。
太宰治氏は現在どのような立場にいるのでしょうか。

三島由紀夫 太宰はもっと暗い世界にいるよ。太宰は、永遠のトートロジーの
中で、自分がつくった想念の中で自分を苦しめている。永遠にそれを繰り返し
ているのを見る事ができる。

 芸術と「念」について

B- 救いようもない、ということですね。
 では次に、霊界の芸術全般について質問いたします。霊界では、芸術作品は
どのような過程を経て製作するのでしょうか。また、霊界における芸術作品は
どのような形態をとるのでしょうか。
 この世であれば、芸術作品は、絵画でも、音楽でも、文学でも、画材、音、
文字といった三次元的な形をとることとなります。しかし霊界では、確固とし
た材料はなく、芸術作品としての特定の形を維持するのは困難のように思えま
す。もしかすると、霊界の芸術作品は、一つの念を……たとえば、瞬間冷凍し
たような形にして保存するような技法によるのでしょうか。それとも地上の音
楽が、音が生じたかと思えばすぐに消え行くはかなさを持つように、霊界の芸
術は全般的に、一つの念によって生じたかと思えば、すぐに消え去って行くも
のなのでしょうか。

三島由紀夫 それは、創り出す人によるようだ。私は紙という媒体でなければ
認識できないから、礼状を書く時も紙に書くし、ここに届く書物は全て紙だ。
正確に言えば紙の念が結晶したものだ。どうも他の作家は違うらしく、手紙を
やりとりする中で食い違う事がある。表現形態は様々であるが、共通している
のは何かしら「念」というものが存在する、という一点かな。出そうと思えば
一瞬にして生まれるが、消そうと思えば一瞬にして消え去る。これは私の専門
分野でないため詳しくは判らないが、創り出すべき主体側に、“それ”を維持
せしめる能力があるか否か、受け取るべき客体側にも“それ”を把握する能力
があるか否かにも拠るのではないかな。これは、霊界の芸術に客観的な価値が
あるか無いかの話になるので、ここでやめておく。造型芸術の専門家霊にでも
訊ねてくれ。

B- わかりました。ありがとうございます。
 巷では、三島由紀夫の霊界通信なる書物が流通しております。これはどうい
うことでしょうか。三島先生は霊界通信を送っておられるのでしょうか。それ
とも、直に霊界通信を送らないまでも、何らかの形で関係しておられるのでし
ょうか。
 また、これに限らず、霊界通信全般について、三島先生はどのようなお考え
をお持ちでしょうか。霊界通信はその真偽の判定が困難であるために、世の人
々を惑わすばかりで益の無いように思えることが少なくありません。三島先生
は、霊界通信に肯定的否定的、どのような見方をなされておいででしょうか。

三島由紀夫 私も生前、交霊術に関心を持っていたが、神は霊媒にはかからな
い。私の霊界通信の指導によるとするものについて、私は関知していない。
 だが、地上にはかつて親しかった者がまだ生きていて、「彼女」は私の意識
のかなり底まで同通している事から、メッセージを送る事はある。「彼女」は
それを気づいている。
 もっとも、「彼女」は太った山伏のような男と親しいが、その男はニセモノ
である。そういうメッセージを送っても届かない。念波が同波長の時でなけれ
ば受信できないのだ。
 ちまたの霊界通信や交霊術は、ほとんどすべてが低級霊によるもの。高級な
霊はそうした通信をする事は原則ない。もし神に会いたければ、神の心に波長
を合わせるのが一番良いのだ。以上の事は既に明るい世界に還っている森田君
に学んだ。森田君は谷口氏の弟子であり霊界事情に明るい。
 *注 森田必勝氏のこと。

B- 直に、三島先生の肉声に触れられればと願うばかりです。三島先生は、
もし今の日本に生まれるとしたならば、どのような計画を立て、どのような人
生を送られるのでしょうか。

三島由紀夫 考えた事も無いが、やはり作家として生まれるか官僚として生き
ると思う。同じような命題を追求し、同じような隘路に陥り、そうして別の判
断ができるかを試してみたい。

B- 三島先生、貴重なご意見をありがとうございました。三島先生の一言一
言に秘められた金剛石のごとき英知の輝きに、大いに刺激を受けました。
 向上心を鼓舞するためには、優れた人と対話をすることこそが、一等なのか
もしれません。これからも精進してまいります。
 今、遠くの空から、花火の音が聞こえてきております。そちらの世界の花火
も美しいでしょうね。では、またお会いできる日までさようなら。


聖杯と剣 霊言は以上です。質問者の投げかける問い次第で、答える側の霊人
も多様な回答をしてくれます。みなさんも、日々自分に「問いとは何ぞや」と
投げかけてください。そこに新たな悟りの芽があることでしょう。通り一遍の
質問ばかりしていては進歩がありません。
 日々勉学と仕事に励んでください。以上です。

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